洋楽を通して自分を知るウェブログ

洋楽の歌詞を和訳してから、気が済むように解釈して、自分の考え方を書き残してみたい、だけです。

気持ちの切り替え

明日も試験が控えているけれど、あまりにも勉強に疲れたので気晴らしに文章を書く。

Radiohead の1st、Pablo Honey (大ヒット曲"Creep"が収録されているアルバム)を聴きながら。

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僕は、子供の頃から自分の内面ばかりを見つめて生きてきてしまったので、自分のことはよく知っている。しかし、自分が平均的な他者と比較してどういう人間なのか、どういう状態なのか、というのは全然わからない。自分の中の尺度はあっても、それが万人に共通するものでないことはわかっているから、その尺度で測った計測値になんの意味があるのかいまいちわからなくなる時がある。どれくれいの痛みから「痛い」と呼ぶにふさわしいものになるのか、どのくらいつらくなったら「つらい」と訴えて妥当なのか、どのくらいもう十分生きたと思ったら「十分生きた」ものとして受け入れてもらえるのか、etc.

いや、最近はマシなので死にたいとは思っていなくて、だからこそ、例えば一年くらい前の死にたかった瞬間は本物だったんだなぁなどと思うわけである。4ヶ月くらい前も精神的に落ち込んでいたみたいで、自分ではよく覚えていないというか他人の身に起こったことのようにしか捉えられないけれど、友人はその頃の僕を今の僕と同一の存在としてひっくるめて心配してくれていた。とても嬉しかったのと同時に、自分が当時何故そこまで落ち込んでいたかも思い出せないことに気付き、情けなく感じた。なにか巨大な困難と闘っていたはずで、それを乗り越えたから今は回復しているはずなのに、困難の正体が思い出せないのはなぜか、疑問に思った。

たぶん僕は困難と闘っているとき、現実にある問題を解決しようとする努力から逃避して、代わりに、自分の感性が脳に伝えてくる「つらさ」をいかに無視するか、麻痺させるかということばかりに注力していたんだと思う。そうして現実にはなにも解決していない(あるいは偶然時間が解決してくれることもあるが)中で、自分の尺度だけを狂わせることでなにかを克服し、困難の存在を忘却し、過去の自分との連続性を失って、一層自分自身からも疎外されてしまうわけだ。この厄介な手癖は、早急に捨てなければなるまい。

本当に追い詰められて弱ってしまってからでは、問題を解決するための知性や体力はもう失くなっているから、そうなる前に戦略を立てておこう。つらくなってから原因と闘い始めるのでは遅い、負けてしまう。これからは元気な時に、「つらくならない為の闘い」をやっておこうと、思っている。

 

それだけ。

 

 

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Track4. STOP WHISPERING より